永松銅山記 2へ
  永松銅山記その1

 このへんで私の生まれ育った永松銅山というところを少しご紹介したいと思います。
住所は山形県最上郡大蔵村永松となり、位置的には月山の裏側にあたり、肘折温泉という古い温泉がありますが、そこを流れている銅山川という川を上流に辿って行くと旧永松銅山跡に行くことが出来ます。
交通的には、寒河江市側から白岩を抜け肘折温泉に抜ける国道458線をひたすらさかのぼり、途中、十部一峠という所から2キロほど西へ下ったところにあります。地図からも抹消され、載っていたとしても「永松銅山跡」となっており、すっかり歴史の中に埋没しようとしています。
永松銅山の歴史は古く、少なくとも300年以上前からその存在は確認されていたようで、その後紆余曲折を繰り返しながら、昭和になり大鉱脈が発見され、太平洋戦争の軍需産業の拡大に伴い銅の生産は国策に近い産業となり、永松銅山は全国有数の銅の生産鉱山となりました。
採掘、選鉱、精錬、製品、出荷まで一括して行ったことは、あの山奥の現場を考えると驚くべきことだったと思います。
古河鉱業鰍フ資本を得て順調に発展し、最盛期には家族を含め3000〜4000人の人たちが働き、月山と葉山という名山の間にありながら、あまりにも山深いためその姿さえ見ることが出来ない山中に、一つの独立国のような形で永松銅山はあったのです。
今では原生林に埋もれてしまっていますが、当時は大工場群が山腹に広がり、大型の重機類が唸りを立て、巨大な溶鉱炉が真っ赤な炎をあげていて、それは一大工業地帯にほかなりません。始めて訪れる人には別世界のように感じられたことでしょう。
発展の一翼を担っていたのは運搬方法ではなかったかと思います、ちょっと考えられないことですが、当時からリフトがあったのです(その頃は索道又は鉄索と言ってました)。ちょっと想像できないことかもしれませんが直線距離にして18キロ、始発はもちろん永松銅山、途中に、幸生銅山、幸生・木戸口を経由して、山を越え谷を跨いで、終点の白岩まで、ほとんど直線でリフトはあったのです。
白岩でも今はその痕跡すら探すことは難しいのですが、場所は白岩新町、新臥龍橋を渡りきったところににガソリンスタンドがあり、近くには種まき桜と呼ばれる古木がありますが、あのあたりに永松銅山白岩出張所があり、銅山と下界との接点、拠点でした。
銅山から町へ出るとき、銅山に上るとき人々は必ずここへ立ち寄り、荷物などを鉄索で送り身軽になり銅山へ向かったものです、町へ出ることを人々は下へ下る(くだる)という言い方をしていました。
今も山形へ行ったとき、時々その前を車で通過する時がありますが、昔、庭にあった梅ノ木が最近まで残っていたような気がしていましたが、それは隣の大沼菓子店の何かの木だったようです、(当時父は出張所の所長をしていて社宅の庭に梅ノ木と桜の木があり位置的にこの木だと思い込んでいましたが違うようでした。最近現地を訪ね大沼菓子店に立ち寄りご主人に会い、当時の話を聞きながら跡を案内してもらい確認しましたが、桜の木の切り株だけが残骸のように橋の下にありました。)
写真は遺跡と化した工場群
                
山形県在住の近藤元一さんがあちこち旅をされた中で、永松銅山についてご自分のHPに書かれた記録があります。

近藤元一氏永松鉱山探訪へ

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