最近の永松銅山 写真
永松銅山、幸生銅山図録の表紙
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 「永松銅山・幸生銅山図録」が完成しました。
これはかねてから寒河江市教育委員会、寒河江市市史編纂室で、宇井啓先生始め他の委員の方の協力のもと1年に及ぶ(資料展開催時からは2年)期間を費やして完成したもので、永松、幸生銅山の歴史とともに閉山に至るまでの記録が古い写真とともに収められています。
 寒河江市では市史の編纂を進めておりその一環として、廃坑となった鉱山なども対象となり、平成20年、郷土資料館で「永松・幸生銅山資料展」が開催され多くの共感を得、昨年の「写真展」においても多数の見学者が訪れたことにより、図録の発行に至ったようです。
宇井先生始め委員の方のご努力は言うまでもありませんが永松、幸生銅山の元住民の提供した資料が基になっていることは言うまでもありません。
私もなんとか銅山の記録を残したいと思い、数年前からホームページ上で自分の記憶を頼りに書き始めたのですが、個人の力だけではなんとも限界があり、取材も思うように行かず内心イライラしていたのですが、昨年宇井先生とお会いした時に、図録を作りたいとのお話があり内心大いに期待していたわけです。出来あがった図録を拝見して、私がやりたかったのは正にこういうことだったのだと、心のつかえがとれる気持ちでした、自分が成しえなかったことを宇井先生に果たしていただいたようで、他力本願ではありますが、救われた気持ちになっています、本当に心から感謝いたします。
宇井先生とともに編集にご協力いただいた中山秀子先生、柏倉栄子先生にも心からありがとうございますとともにお疲れさまでした、と申し上げたいと思います。柏倉先生には、何度も電話を頂いたり、原稿を送っていただきチェックさせていただいたり、「編集の言葉」の中では、永松まで行かれ廃坑の跡を実地に見学されたり、足尾銅山まで取材に行かれたことを知り、”そこまで・・・”と、ただただ頭の下がる思いです。
この図録は、元住民にとって故郷を懐古する時かけがえのない記録になるだろうし、寒河江市の市史としても永久に残ると思うと感慨深いものがあります。
    
                

 内容をここでご紹介するのは難しいので図録を見ていただく以外ないのですが、銅山発見から一時期の旧山、大正、昭和初期の全盛期時代、そして閉山に至るまでの経過が、住民の暮らしの模様と当時の写真とともに掲載され、解説されています。
元住民誰しもが、分かりやすい形でなんとか後世に残したいと思いながらなかなか実現に至らなかった記録が、寒河江市の協力で完成したことに、改めて感謝しなければならないと思っています。

          
                              

 

永松銅山・幸生銅山図録