物資は主にそのリフトを使って運搬されたわけで、行きは製品化された銅を運び、返りは永松銅山住民の生活物資を運んでいました。
リフトで運ばれた銅製品は、専用の鉄道で三山電鉄「白岩」駅まで運ばれ貨車で東京方面へ出荷されました。
住民の生活は比較的豊かで、日常生活に不足をきたすようなことはなかったように覚えています。
商店こそありませんでしたが、会社の購買組織がきちんと出来ておりそこへ行けば大体のものは手に入るし、頼めばなんでも手に入りました。その他に白岩地区の雑貨店数件が時々訪れ、雑貨、菓子、魚類を個別販売するなどしていたようです。出羽三山の宿場町的な存在だった白岩も永松銅山の存在は大きなプラス面だったようです。又通信販売的なシステムもあり東京、仙台のデパートから直接購入したりする家庭もあったりして生活は文化的でした。
酒田、角館など小京都と呼ばれる地域がありますが、それは京都の文化が北前船により途中の都市を経由しないで、直接その地域に京文化が根付いたと同じように、銅山でも、中央の文化が長距離リフトの運搬手段により影響していたことは確かにあったような気がします。 銅山には集落が5ヶ所ほどあり、それぞれ名前が付いており、「上岱(うわだい)」、「赤沢」、「川前」、「大切(おおぎり)」、中切(ちゅうぎり)などと呼ばれていました。学校、購買組織、診療所、郵便局などが集中するところは「大切」で、工場群とは別の管理部門の中心でした。工場群はもう少し西より、山を一つ越えた山腹に集中していました。
 集落はほとんどが長屋形式ですが、間取りも広く台所付きで2DKから4DKぐらいの形式があったようです。その他に合宿所と呼ばれる宿舎があり、ここには銅山以外の地区から働きに来ている人たちの宿舎となっていました、又学校の先生達の宿舎にもなっていました。
 夏のお盆には、町へ出ていた若者、学生が帰省し、親戚なども集まり、盛大な盆踊り大会が始まります。
若い衆は競って太鼓をたたきにやぐらに登り、女性は浴衣に着飾って踊ります。
町からは行商人が多数来山し屋台を組み、東京からは芸能人が慰問に訪れるという賑やかさでした、又野外映画も開かれ、お盆とはいえ旧盆なので夜も更けると冷え込み、映画が終わると震えながら家路に着いたのを覚えています。
しかし、大発展を続けた銅山も、昭和20年代から徐々に銅の生産が落ちてきました、限りある資源を掘り尽くしてしまったのです、なんとか新鉱脈を発見するためのボーリング調査を行ったようですが有効な資源は見つからなかったようです。
そうなると能力を削減するしかなく、唸りを上げていた機械類もだんだん元気がなくなってきました、リストラもその頃から始まったようです。鉱山労働者もだんだん減って行き30年代に入ると精錬工場としての機能も停止し、昭和36年廃坑となりました。銅山で働いていた人々は、個人的に転職した人を除き、古河鉱業本社の配慮でほとんどの人たちが東京方面に転職が決まっていったようです、永松銅山の歴史は完全に幕を閉じました。閉山直後から故郷を偲ぶべく「永松会」という親睦会をつくり、毎年1回の会合を開き昔を語り、お互いの安否を確認したり故郷へ思いを馳せ、元気のよい人たちは現地を訪れたりしていますが、昔を懐かしみ涙する老人も多数いらっしゃるようです。
永松会も50回を数え、今年4月には50回記念パーティーが横浜のホテルで盛大に開催されるそうです、10月には現地を訪れるツアーの計画もあるようです。
「つわもの共が夢のあと」あれだけ活気があった銅山も、時代の流れ、全くの廃墟と化してしまった永松、今後どういう形で語り継がれてゆくのだろうか、やがて知る人も絶えてしまうかもしれないと思うと、なんとなく感傷的になります。

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永松銅山記その2