小学生のころ 5

春になって雪が消え雪崩の危険がなくなると人々は外を歩けるようになるわけですが、私の住んでいた上岱(上台)から学校までは子供の足で一時間以上は掛かったような気がします(道草を入れて)。
学校までは赤沢の集落まで下り、銅山川(烏川)に掛かる橋を渡り、あとはひたすらジグザグの登りでした。途中、鉄索場の脇を通り”カラミ”の上部を抜け、川前部落を左手に見下ろしながら、”へぐり”または”へんぐり”と呼ばれていた崖を横切り学校に辿りつきます。へんぐりは切り立った急な崖で、大きな岩が頭上にゴロゴロしており今にも落ちてきそうな感じがして子供心に非常に怖く、ここを通り抜ける時はわき目も振らず走り抜けたものです、でも銅山内の道は登山道のような感じではなく結構広い道が通じていて、大人同士が2~3人並んでも十分に歩ける道路でした、ただし平坦なところは少いので、自転車などは一台もありませんでした、自分の足だけが頼りでした。 道草も大事な遊びで途中の道端の雑草でいろいろな遊びをしたり、ドンガイ(いたどり)、カヤの実を取っては食べ、よく分らない植物を食べ口の周りを真っ黒にしたり、バッタを捕まえ、トンボの尻尾を切り、時には蛇をイタズラし逆に向かってこられて逃げ回ったり、捕まえたりしながらの下校でした、家に帰れば、ランドセルを放り投げて外で暗くなるまで遊ぶ毎日でした。あんなに深い山奥でも夏は結構暑く、水遊び、水泳もよくしました。川でも泳ぐことは出来るのですが少し上手くなると特別な場所で泳ぐことができます、ここで泳ぐことは原則的に銅山では禁止されていたのではないかと思うのですが、前に銅山記でお話しましたが銅山には発電所があって、その動力となる水を川から導く水路が何キロかあってその途中に「水源」と呼んでいたプールがあります、そこは川から流れ込んだ砂などをそこで沈殿させてしまおうという所で、そこで泳ぐわけです。プールといってもそんなに広いわけではなく、深さも2メートルぐらいだったと思うのですが、ここで泳げることは自慢の一つでした、川の水は冷たく、何分も入っていられないので、唇を紫色になるまで入っていてガタガタ震えながら泳いでいましたがプールの外には大きな焚き火がしてあり、子供達はプールから出ると焚き火で体を温め、また飛び込むという遊びを繰り返していました。
 家の前は結構広い広場になっていて格好の遊び場になっていますがその隅には掘り起された大きな木の根っ子があり、それが馬のように跨がれるので、乗ったり、ぶらさがったりして遊んだ記憶があります、あの根っ子はどうなったでしょうか、もう腐って土に還っているでしょうね。
各家庭では自宅で消費するぐらいの畑を持っていて夏はトマト、キュウリ、大根、なすなどが畑一杯に出来ており、それをもいではそのままかぶりつく美味さは忘れられません。その他にジャガイモ、とうもろこし、カボチャなど、冬の間の保存食も作っていました。銅山では夏の間はサマータイムを導入していて父は三時ごろにはもう帰っていて、畑仕事をしていた記憶があります。
前にも書きましたが私は小学六年生までしか永松には居ませんでしたが実は兄も小学六年で永松を出ています、これは我が家の教育方針ではなかったかと思っています、河北町谷地に母の実家があり、祖父母はまだ健在でしたので兄も私もそこから谷地中学に通学したわけです。特に永松の学校教育のレベルが低いとかの問題ではなく、広い世間を経験し大勢の仲間たちと交わらせたいと思ったのだと思います。永松の教育レベルは結構高く、郡のレベルでも常に上位にあったと聞いています。

(左上、親しくしていた先生に連れられて湯の浜温泉へ海水浴に、右が私、弟、兄)
(右下、100歳で亡くなった母の若い頃と妹、3.4歳ぐらい?)

 小学生の頃 
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