私がなぜ永松銅山についてHPなどに書こうと思ったかというと・・・。
今更ながら、という気もしますが、自分が生まれて育った永松銅山という環境が特殊だったということもありますが、すでに廃坑となって50年以上経ち、故郷としての永松は消滅してしまい、銅山跡に大蔵村で造った砂防ダムも度重なる土砂崩れで機能しなくなっていることと、それと同時に道路も458号線は十分一峠から肘折方面は常時通行止め状態が続いているし、当然永松銅山跡に降りる道路は全く整備されてなく荒れ放題、徒歩でも降りるのは困難となれば益々永松は遠くなり、もう我々の記憶の中にしか永松は存在しなくなり、やがては我々の記憶からも消滅してしまうことは明らかなことであり、そうなった時にだれが永松のことを伝えるのだろうか、だれが語ることができるのだろうかと考えると、何かの形で残すしかないかなと思った訳です。
記録などと大げさではなく、銅山の歴史、銅山の詳細については古い書物もあり、大蔵村役場にも村史として残されているので、私は我々住民レベルから見た銅山を物語風に残せばよいと思った訳です、あれだけの深山で誰が銅鉱を発見したのか驚愕に値いしますが、そういうことは差し置いて、そんな深山に紛れもなく一大工業地帯が存在した事実、そして銅山と関わりながらそこで生活していた人たちのことなど、そんなことを残しておきたいと思った訳です。
私は物書きでもないし、最近は手紙もろくに書いたことが無い人間なのでどういう形で書き始めたらよいか迷いましたが、自分のことを思い出しながらまとめるのが一番手っ取り早いし、だれにも聞く必要も無いわけで、その辺りからはじめてみようと持ったわけですが、実際書き始めてみると自分の文章力のなさにガッカリしてしまい、「物書きとは凄いものだなー」などと感心してしまいながら悪戦苦闘しているわけです。
芥川賞作家の「森敦」氏と比較するのはおこがましいのですが、氏はわずか半年ほどの冬ごもりの体験を単行本一冊の長編に書けるのに、私の場合は十年余りの体験をわずか数ページしか書けない表現力のなさ、文章力のなさにいまさらながら気付かされているわけです。
小学六年までの記憶はすでに出つくしてしまい、貧弱な記憶ではろくなことが書けないものだとつくづく思い知らされましたが書き始めてしまった以上何とか続けないと、と思っています。
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