小学生のころ 4
 
銅山の学校は小、中学校共用の校舎を使っていて、私が銅山を去ってから中学の校舎が増築になったようですが、大蔵村立、永松小、中学校といいます。生徒数は全校で多い時で100人前後ではなかったでしょうか、多い学年で20人ぐらい、平均して一学年14・5名が通学する学校でした。私が6年生で学校を去る頃は18名ほどの同級生が居たのですが、中学を卒業する時には7名に減っていたそうです。先生方は校長先生と教頭先生を除けば、大学を卒業したばかりとか、転勤された先生も若い先生ばかりでさながら
「教育という現場の実地体験」的な方針で送り出されてきたような感じでしたがそれなりに情熱があり、生徒の教育には熱心に当たられていたようです。しかし今になって考えてみるとあの山奥で冬はまったく下界とも隔離されてしまう偏狭で、飲み屋もない、体力を発散するところもない環境の中でよく頑張っていただいたなと思います、生徒たちとも遊びにいたるまで付き合ってくれていたようです。言ってみれば少数教育の走りのような感じで、特に冬は薪ストーブを囲んでの授業は忘れられません、先生はよく本を読んでくれました、「ああ無情」「ロビンソンクルーソー」「十五少年漂流記」「三銃士」等、先生の朗読に夢中で聞き入り感動した覚えがあります。
私は中学は町の学校へ転校していたのですが、町の中学は銅山より早く夏休みに入るため、家族のいる銅山に帰るわけですが、銅山中学はまだ休みに入っておらず友達も学校へ行っているわけで、退屈して学校へ行くと、先生は教室に入れてくれ、皆と一緒に授業に参加させてくれ、給食も皆と頂いた記憶があります、全ての面で和やかで良い環境でした。
通学は冬以外は夏道を歩けるのですが、冬は雪が多いことと雪崩の危険があるため、上岱(うわだい)地区、赤沢地区、川前地区の人々は隧道(ずいどう)と呼ばれていた200メートルほどのトンネルを通ることになります。隧道は選鉱場から坑内へ通じるれっきとした生産ラインなのですが冬場だけ前期の理由で許可されるわけです。選鉱場からのトンネルは大切でいったん外へ出るので、学校、購買所などはその大切で外に出てそれぞれ目的の場所に向かいます。住民は冬の間はその隧道を利用しないと学校にも行けない、診療所、購買所、郵便局にもいけないというライフラインの全てをこのトンネルに頼っていたわけですが、トンネルは坑内現場へ通じているわけですから、鉱石を積んだガソリンカー(トロッコ)が通るわけで人々は狭い通路をトロッコを避けながら歩いていました。中は所々電灯はあるのですが、薄暗くて気持ち悪く怖くて足元も悪いので、とても子供一人では通れないようなところでした。トンネルへ入るのにもすぐ外から入り口があるわけではなく、選鉱場の中を通り抜けてやっと入り口へ着くわけですが、その途中は、真っ赤な炎を上げている溶鉱炉があり、くさい臭いをだしながらドロドロな液体を掻き回しているよく分らない装置の間を鼻と口を押さえながら通り、ものすごい音で石を砕いている巨大な機械の横を通り抜け、工場の中の何百段かの階段を上りやっとトンネルにたどり着くわけで、集団でなければとても通れるところではありませんでした。

右上、小学3年頃の集合写真18名の同級生

左下、夏の大祭、山神様参りで賑わう参道、長い階段

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