そうしていたのも束の間、義雄君が「お墓の方へ行ってみよう」と言い出しました。又、私に「どっちの方だー」と聞くので集落からもっと奥の方だったと思い「コッチだろう」といい、そちらへみんなで移動しました。しばらくすると先頭を歩いていた義雄君がまた「アッタッー」叫びました。するとそこだけは少し雑木が少なく、わずかに見通しがきき、大きな碑が二つ見つかりました、ブナの大木の根元には小さな石碑が転がっていました、ここは昔から亡くなった方を火葬にする焼き場で、銅山で亡くなった方々を祭る碑があることは知っていましたが、子供のころは怖くて近づけない場所で、「肝試し」の場にもなったところです。碑には「鉱人招魂碑」もう一つには「忌魂」という字が刻んでありました。誰かが以前にここへきてお供えしていったのでしょう、お茶の缶が一つ置いてあったのが寂しさを募らせました。今度は何時だれが来れることやら・・・しばらく合掌して上岱を去ることにしました。帰りも来た方角がほとんどわからなく「ドッチだー!」「コッチだー!」を繰り返しながらジグザグの道をやっと見つけ赤沢に辿り着きました。
やりました!!念願だった上岱にとうとう行くことが出来ました。感動というよりなんか虚脱感の方が大きかったようで、ぐったりしました。汗だらけになった顔を赤沢のつめたい水でぬぐい、やっと人心地が付きました。
義雄君はこんなときでもぬかりなくワラビなどを採っていたようで、ビニール袋いっぱいの収穫があったようです。竹の子はもう終わっていてワラビも相当大きくなっていましたが、先の方はまだ食べられるそうです、彼は本当の山男ですね、いや、登山家という意味の山男ではなく永松に関するスペシャリストと
いう意味の山男ですが、本当に彼がいなければ上岱に行けなかったと思うと、感謝!感謝!です。
恐怖感でいっぱいだったトラウマにも開放され、一度経験したことで今度は一人でも行けそうという自信が着きました。
今回私の永松上岱行きのきっかけとなった写真展、個人の写真展とはいえ、大変意義のある写真展だったと思っています、昨年、今年と続けての開催、寒河江市民にとって永松銅山とは始めて耳にする方がほとんだろうと思いますし、銅山全盛時代でも知っている方は少数だったろうと思いますが、この時代、消え去ろうとしている永松を、その歴史とともに紹介していただいたことは、元永松住民にとってはれて認知されたようなもので、寒河江市の市史の一部として語られることになるだろうと思っています。改めて寒河江市教育委員会と、宇井啓先生、中山先生、ご協力いただいたスタッフの皆さんに感謝申し上げます。
(写真、雑草に埋もれた「馬頭観音」わずかに「馬」の字が読み取れた)
上岱の思い出へ戻る 次ページに今回の上岱の写真を掲載しました。