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 二日目、朝から強風が吹き荒れてホテルの窓からも庭の竹やぶが激しく揺れている様子が見えます。
さてどうしようか、今日は一日暇です、ニュースによると山形新幹線は全線運休し、県内の路線も運休が多いらしい、予定では白岩から幸生あたりまですこし尋ねて見たいと思っていたのですがこの風と時々激しく降っくる雨ではどこへも出掛けられない、とりあえず山形市まで行けばなんか今日の目標が見つかると思い出掛けました。
幸い左沢線は動いていて、台風はこのあたりではたいしたことはなく、奥羽山脈あたりを縦断しているようだと乗客の人が話していました、山形市に着いてみると、風もそんなになく普通の”天気の悪い日”ぐらいの様子でしたが、山形を基点にした列車はほとんど止まっていました、出来れば山寺あたり、思い切って仙台あたりまで遊びに行ってもいいと思いながら出てきたのですが、これではどうしようもありません、傘をさしながら市内を少し歩きましたが、時間を潰すこともできなく、駅の近くで「冷やしラーメン」を食べ、動かなくなってしまうかもしれない左沢線を気にしながら早々に寒河江のホテルに戻りました、そのあとはホテルで温泉に入ったり部屋でゴロゴロ。
 三日目
 いよいよ今日は永松へ行けると思うとなんとなくドキドキしてきました、工事中という砂防ダムのこと、台風で倒れてしまった橋脚のことなど、9時、約束どおり東海林先生が自家用の四駆でホテルまで迎えに来てくれました、「458号線が通行止めになっていなければなんとか行けるだろう」となんとも心細いことを言う先生。
その前に合わせたい人が居るということで、先生は西根という地区に案内してくれました、ここには東海林寅雄さん(しょうじとらおさん)という方がおり、この方は永松銅山で長年働き、父の白岩出張所所長の頃、社員として働いていた方で、私たち家族も「トラオさん」と呼んで親しくしていた方です。
現在も元気で90歳を超えられましたが、かくしゃくとしてお暮らしのようでした、奥様も元気で永松の頃、白岩の頃、私たちの家族のこともよく覚えていて話してくれました、メモの用意もなく伺ったので、もっともっとしっかりと昔の永松のことを聞き取っておきたいと思い再会を約束しお暇しました。
西根を発ち、宮内をすぎ、昔はここまで永松から歩いたことなど思い出しながらあっという間に木戸口まで来てしまいました、ここは父の実家で、永松銅山の鉄索の中継所があったところですが、いまはすっかり様子が変わり、昔の面影は全くなくて、通りの向かいあった菊池家が家を建てて住んでおられました。菊池家は東海林先生の母上の叔母に当たる菊池範代先生が現在も元気で住んでおられますが、立ち寄った時はあいにく留守でした、帰りに寄って見ようということで、先を急ぎ、幸生銅山跡に来ましたが、ここも全く様子が変わり、どう連想しても昔の記憶と結びつかず別の土地を見ているようでなんともいえない気持ちでしたが、廃坑の跡がかすかに昔を忍ばせました。
 ここまでの途中でも見過ごしてしまうような路傍の遺跡は数々あり先生はよく説明しくれましたが、永松のことしか関心ない私には少し難しく理解できませんでしたが、先生の遺跡、廃鉱探求に対する研究の深さが伺え感動しました。国道は何とか通ることができましたが、昨夜の台風の影響はこの辺でも見受けられ、あちこちに折れた枝、葉が散乱していて、相当激しかったことをうかがわせました。
そして問題の十部一峠、「十部一峠から下は大丈夫かなー」と心配していた先生の言うとおり、永松銅山へ降りる道路は完全に閉鎖されていました、無情にも”立ち入り禁止”の看板、「旧住人が故郷を訪れようとしているのに立ち入り禁止とは何事か!!」と思わず怒ってしまいましたが、現在では国が監理している以上仕方がありません。降りようと思えば車ではなくここから徒歩で降りることは可能でしょうが、今回は時間の関係で諦めました、次回は必ず降りるぞと心に誓いました。

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山形紀行 2